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南畝散歩(なんぽさんぽ)
大田南畝が歩いた「上板橋」を散歩しよう!
かつて「上板橋」と呼ばれた地を旅した文人がいました。その名は「大田南畝 」1749~1823。蜀山人 () とも呼ばれる江戸時代の人物です。本職は幕府に仕える御徒 () と呼ばれる下級武士ですが、時代の空気に敏感であり、世を風刺した「狂歌 () *1」や「洒落本 () *2」の作者としても知られています。南畝は寛政9(1797)年4月17日、中台村の藤の木を見に行った折り、今では杜のまちやの建つ、当時の天祖神社にやって来ました。南畝の著した『武江披抄 () 』には、老松杉や大きな柊の木をはじめ、江戸当時の境内の様子が詳細に書かれています。
*1 風刺の効いた短歌のこと
*2 江戸期に流行した戯作 () 小説の一ジャンル
*1 風刺の効いた短歌のこと
*2 江戸期に流行した
鰐口南畝
寛政9年4月、天祖神社を訪れた南畝は天祖神社を訪れました。神社にかかった鰐口 () *3を見て、「神社に(仏具である)鰐口をかけるとはいかがなものか」と一言。世の出来事に敏感な南畝らしさの伝わるエピソードです。
イラストで南畝は、鰐口を怪訝 () そうに見つめています。
*3 丸盆を二つ合わせた形の仏具。打ち鳴らすことができる
イラストで南畝は、鰐口を
*3 丸盆を二つ合わせた形の仏具。打ち鳴らすことができる
勉強南畝
南畝は幕臣、文人であると共に、勉学の人でもありました。「昌平坂学問所 () 」でも学び、寛政6年、南畝46歳の年には、幕府の人材登用試験である「学問吟味 () 」にて、若手を差し置いて首席合格。「支配勘定 () 」という役職に昇進しました。若者にも負けない南畝の知的好奇心。
コーヒー南畝
コーヒーはお好きですか?この大田南畝、江戸時代の人間でありながら、コーヒーを飲んだことがあるのでした。時は1804年、紅毛船 () *4の中で南畝はコーヒーを初めて飲みました。白砂糖を少し混ぜて飲んだその感想は「焦げ臭くして味ふるに堪 () ず」。どうやらお気に召さなかったようです。実は「杜のまちや」には、南畝が飲んだ苦味の効いたコーヒーにちなんでブレンドされた、深入りで苦め、でも美味しい「NANPO BLEND 1804」というオリジナルコーヒーもあります。
*4 16世紀後半以来、日本に来航した西欧諸国の貿易船のうち、主としてオランダ船に対して使われた俗称。鎖国以前に来航したスペイン、ポルトガルなどの外国船は南蛮船と呼ばれていたが、鎖国後は中国とオランダだけが長崎での貿易を許されたところから、中国船を唐船と呼ぶのに対してオランダ船を紅毛船と称した。さらに来航禁止の南蛮船と区別する意味もあった。幕末期には広く外国船をさすこともあった。
*4 16世紀後半以来、日本に来航した西欧諸国の貿易船のうち、主としてオランダ船に対して使われた俗称。鎖国以前に来航したスペイン、ポルトガルなどの外国船は南蛮船と呼ばれていたが、鎖国後は中国とオランダだけが長崎での貿易を許されたところから、中国船を唐船と呼ぶのに対してオランダ船を紅毛船と称した。さらに来航禁止の南蛮船と区別する意味もあった。幕末期には広く外国船をさすこともあった。
大田南畝と歩く道
〜古道を訪ねて〜
寛政九年丁已四月十七日 伊藤綱達、児俶とゝもに、志村城山の下、中台村といへる農家に大なる藤有て、ならはしに藤の木百姓とよぶといへるを見んとて出たつ。巣鴨村をへて池袋村に至る。道の右に少し入て、氷川明神有〔八幡の小社もあり〕大きなる杉の木たてり。囲九尺にあまれり。此木に釘うちてあり。しうねき女のうちしにやとおそろし。 道の左に、十羅刹あり。鳥居をたつ。
左へ曲る道に榜示あり、右上州道左川越道としるせり。右は下板橋の方、左は上板橋の道なり。左りの方へゆく道の角に、子安(易)大明神あり。
上板橋の石橋を越へ、右へ曲り、坂を上り行。岐路多くしてわかりがたし。 左の方に壱丁余り松杉のたてる所あり。此はやしをめあてに行ば、神明宮あり。長命寺の持なり。松老杉枝をまじへて大きなる柊もあり。宮居のさまも藁 () ぶきにて、黒木の鳥居神さびたり。唯宮居に鰐口といへるもの懸しはいかならんかし。
神明の前を北へ行、練馬の道に出、庚申塚の脇に道あり。北ざまに行ば前野村にいたる。 百姓宇左衛門といへるものゝ門を過て北の方に行ば、なだれたる畑に出、むかひをみれば左右に高き松山あり。左は城山、右は延命寺の松山なり。右の方にゆけば延命寺の松山の麓にいたり、曲径を上りて延命寺の門の左に出、大なる欅の木あり。囲弐丈四尺、今までかゝる大なる木を見ず。牛をかくすといひけん、きのふの木も思ひ出て、鐘の銘を写す。
(中略)
中台村は城山の西にあり。 田間の道をつたひゆけば堤有、名をすりはりといひて、公儀より普請のよし、土人 () 語れり。小流有、さかさ川といふ。川をわたりて左右にわかれたる道のほとりに小碑をたつ。
明和七庚寅二月日
奉石橋建立庚申待講中二世安楽処 武州豊島郡東叡山領中台村 願主 向台中
右ははやそみち 左はねりま道
けふなん新に石橋かけし供養ありとて土人かたる。 明和にかけし石橋のくづれしをかけかへたるなるべし。其かけしものか市右衛門といへる百姓にて、彼藤の木のあるじなり。道の左りのかたより小高き所に上る。門に大きなる藤の蔦みゆ。屈曲して蟠竜のごとし。そろといへる木にからみて高さ三丈にも近かるべし。仰いてみれば藤の花ところどころに見ゆ。棚などつくりしさまとはやうかはりて、めづべき花ともみへず、只年ふる老木のさまめづらしとおもふのみなり。 こゝにてさゝへなどかたぶけ、もとしき道もうるさければ、下板橋にかゝり、道の左りより王子道に出、稲荷の社の後の山より飛鳥山の麓をへてかへる。庚申塚のほとりにて曰くれたり。
武江被砂 附録『大田南畝全集』第十七巻 雑録 Ⅰ 岩波書店
左へ曲る道に榜示あり、右上州道左川越道としるせり。右は下板橋の方、左は上板橋の道なり。左りの方へゆく道の角に、子安(易)大明神あり。
上板橋の石橋を越へ、右へ曲り、坂を上り行。岐路多くしてわかりがたし。 左の方に壱丁余り松杉のたてる所あり。此はやしをめあてに行ば、神明宮あり。長命寺の持なり。松老杉枝をまじへて大きなる柊もあり。宮居のさまも
神明の前を北へ行、練馬の道に出、庚申塚の脇に道あり。北ざまに行ば前野村にいたる。 百姓宇左衛門といへるものゝ門を過て北の方に行ば、なだれたる畑に出、むかひをみれば左右に高き松山あり。左は城山、右は延命寺の松山なり。右の方にゆけば延命寺の松山の麓にいたり、曲径を上りて延命寺の門の左に出、大なる欅の木あり。囲弐丈四尺、今までかゝる大なる木を見ず。牛をかくすといひけん、きのふの木も思ひ出て、鐘の銘を写す。
(中略)
中台村は城山の西にあり。 田間の道をつたひゆけば堤有、名をすりはりといひて、公儀より普請のよし、
明和七庚寅二月日
奉石橋建立庚申待講中二世安楽処 武州豊島郡東叡山領中台村 願主 向台中
右ははやそみち 左はねりま道
けふなん新に石橋かけし供養ありとて土人かたる。 明和にかけし石橋のくづれしをかけかへたるなるべし。其かけしものか市右衛門といへる百姓にて、彼藤の木のあるじなり。道の左りのかたより小高き所に上る。門に大きなる藤の蔦みゆ。屈曲して蟠竜のごとし。そろといへる木にからみて高さ三丈にも近かるべし。仰いてみれば藤の花ところどころに見ゆ。棚などつくりしさまとはやうかはりて、めづべき花ともみへず、只年ふる老木のさまめづらしとおもふのみなり。 こゝにてさゝへなどかたぶけ、もとしき道もうるさければ、下板橋にかゝり、道の左りより王子道に出、稲荷の社の後の山より飛鳥山の麓をへてかへる。庚申塚のほとりにて曰くれたり。
武江被砂 附録『大田南畝全集』第十七巻 雑録 Ⅰ 岩波書店
引用(トップ地図画像)
「正保年中江戸絵図」国立公文書館 デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/gallery/0000000036(2022年8月27日 閲覧)
「戦災概況図東京」国立公文書館 デジタルアーカイブ
https://www.digital.archives.go.jp/gallery/0000000113(2022年8月27日 閲覧)
参考文献
小林ふみ子『大田南畝 江戸に狂歌の花咲かす』岩波書店 2014年4月竹田真砂子『あとより恋の責めくればー御家人南畝先生』集英社 2010年2月
平岩弓枝『橋の上の霜』新潮文庫 1987年9月
浜田義一郎『大田南畝(人物叢書)』吉川弘文館 1963年