●REPORT

石神井川と桜の記憶 ― 桜川



第三回 石神井川と桜の記憶 ― 桜川 前編
2021年7月31日 筆者/宮本 紗衣

<話し手>
木下奉章さん
御嶽神社敬神講の講元さん、上板橋在住。
寶田博之さん
現在は奥さんと仲良く桜川在住。
星野正美さん
桜川在住。石神井川沿いに開業していた星野牧場のご子息。牧場のあった場所は、現在の都立城北中央公園。

<聞き手>
宮本 紗衣
天祖神社巫女、板橋区民でもなんでもないが、父が学生時代、板橋で下宿していた。
吉原 恵芽
天祖神社研修生(元巫女)、親子三代の板橋区民。
加藤悠眞
地元在住の高校生。まちづくり・地域創生の分野に興味があるため参加。
矢古宇悠人
天祖神社のお手伝い役。こちらも親子三代の板橋区民。今回はカメラマンとして参加。


 二回に渡り、下頭橋(弥生町)の方々から石神井川と桜並木についてお話をお聞きした記事をお送りしましたが、今回は三回に分けて、下頭橋よりさらに上流である都立城北中央公園周辺・桜川地域の皆さんからお聞きしたお話をお届けします。
 桜川前編は、「暮らしの川・石神井川」と題して、生活に寄り添っていた石神井川のかつての景色にせまります。


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さくらの記憶

筆者補足説明:
 今回は桜川の皆さんにお話を聞くため、天祖神社から御嶽神社へと場所を変えた。着座早々、木下さんから資料が配布された。木下さんは今回の聞き取りに向け、昭和18年生まれの木下政雄さんにあらかじめ聞き取り調査をして下さったそう。

木:事前に木下政雄さんと会話した話をまとめたものがこれです。
聞き手一同:すごいですね。とても分かりやすい。学生のノートより綺麗ですよ。

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石神井川で洗う・遊ぶ
木:栗原橋を渡ってすぐ左手に洗い場があった。洗い場っていうのは、桜川には畑がありましたものですから、収穫した野菜の泥を落としていたんでしょうね。

筆者補足説明:
 現在の栗原橋付近の石神井川には、かつて土手がなく、川に簡単に降りることができた。降りた所に板で畳一畳ほどの平らな場所を作り、周囲の畑でとれた野菜などを洗っていた。泥を落とした野菜は、リヤカーに積まれて家に持ち帰るか、市場に売られていったそうだ。

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写真は今年亡くなった、神明囃子保存会に所属されていた宇山清太郎氏寄贈のもの。写真内中央、女性達の間から何かを洗う様子が見える

宮:つまり、洗い場で(野菜が)洗えるほど川が綺麗だったと?
木:綺麗でしたね。
宮:我々の目線から見ると、川って物が洗えるほど綺麗な印象がないですね。
宝:昔は土手だったから。私は実際、親父の手伝いに洗い場へ入ったことがあります。大根を洗っていましたね。
宮:洗い場はいつ頃までありましたか?
木:桜川中学ができたのが昭和31年で……その頃まではありましたけどね。(洗い場は)あったけど、その頃は水道ができているので、使っていたかは……。
星:『広報いたばし』にですね。昭和63年の「石神井川フェスティバル」っていうのがあって、その時に石神井川の思い出話ということで出たのが、この洗い場ですね。

筆者補足説明:
 「石神井川フェスティバル」とは『広報いたばし』によると、昭和63年、地域の川である石神井川により親しんでもらおうと、コンクリート護岸にスロープを設け、8月20、21日の二日間、水辺まで降りて遊ぼうというイベントであった。当時の『広報いたばし』では、参加者の募集や水辺での遊び方についてのアイデアを募っていたようで、フェスティバルへの力の入れ具合が伝わってくる。


宮:こちらの『広報いたばし』記事内に「この辺でシジミを取った」と書いてありますが、やっぱりシジミがいるほど綺麗だったということですか?
木:シジミもクチボソもいましたからね。コイは「としまえん」から流れてきたコイがほとんどでした。あれは台風が来て、「としまえん」の池があふれてこっちへ流れて来たんです。
宮:コイ!そうだ、下頭橋の方からお話を聞いたんですけど、板橋区でコイを放流していた時期があったと。
木:区役所が放流した鯉については、みんな流れていきましたよ。
宝:北区の人は「ありがとう」って言う(笑)

筆者補足説明:
 石神井川は北区で隅田川に繋がる。先日の弥生町のお二方からお話を聞いた際、石神井川がテレビ番組に出ていたという。確認したところ、石神井川は石神井川でも、北区の石神井川最下流部であった。現在でも、北区付近は探せば魚などが見つかるようだ。ちなみに聞き手の宮本・吉原はテレビ番組に石神井川が出ていることすら知らなかった。地域の方の石神井川センサー、恐るべしである。


氾濫と治水の記憶
星:川の両側に桜並木がある状態から、昭和34年に護岸工事が始まるんですね。それから20年後くらい(で護岸工事完了)ですね。昭和35、6年くらいにまた工事が始まりまして、両側2㍍ずつ広がって今の状態に。完成は昭和57年です。
加:その時には、もう完全に(下に)降りられないんですか?
星:降りられないですね。
宝:掘削しちゃって深くなってますから。
木:昭和33年9月26日、狩野川台風。この時に相当雨が降って、石神井川と桜川中学校の境が分からなくなるくらい、水が溢れまして。その年、大谷口北町は水が溢れちゃって、救助のボートが出るくらい浸水しちゃったんですね。
宮:どこから水が出たとかは…?
木:水が出たのはおそらく……上流もそうだし、この辺(桜川周辺)もでしょうね。
星:このカーブの急なところ(羽城歩道橋~栗原橋)もですかね。

筆者補足説明:
 狩野川台風は昭和33年9月、南関東を中心に甚大な被害を与えた。区内の被災者は5万人に上ったとされ、下頭橋編でも述べた通り、木造の橋が崩壊、その瓦礫が当たり下流の橋脚にヒビが入ったことで、2年間橋が不通になったと言う。桜川周辺は下頭橋よりも上流のせいか、ご自身の浸水被害などは大きく話題にならなかった。
 インタビューにもある通り昭和34年から護岸工事が始まり、一度完成を見たのち、昭和36年に再度改修工事が始まる。川幅を広げながら、昭和57年、完全な完成を迎えた。これにより、1時間に30~50㍉の大雨にも氾濫しない川となった。


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 桜川 前編「暮らしの川・石神井川」、いかがでしたでしょうか。桜川と弥生町、そこまで離れていないように思えますが、まったく違ったお話を聞くことができました。桜川編では、聞き取りの後、城北中央公園と石神井川を散策しました。それはまた次の機会にお送り致します。
続く桜川 中編では、桜川の名前の由来でもある「桜の川・石神井川」と題して、桜川地域の桜の記憶をお伝えする予定です。そこには、地元の高校生でも知らない、かつての桜川の姿がありました。

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第四回:桜の川・石神井川 ― 桜川 中編
2021年7月31日 筆者/宮本 紗衣

<話し手>
木下奉章さん
御嶽神社敬神講の講元さん、上板橋在住。
寶田博之さん
現在は奥さんと仲良く桜川在住。
星野正美さん
桜川在住。石神井川沿いに開業していた星野牧場のご子息。牧場のあった場所は、現在の都立城北中央公園。

<聞き手>
宮本 紗衣
天祖神社巫女、板橋区民でもなんでもないが、父が学生時代、板橋で下宿していた。
吉原 恵芽
天祖神社研修生(元巫女)、親子三代の板橋区民。
加藤悠眞
地元在住の高校生。まちづくり・地域創生の分野に興味があるため参加。
矢古宇悠人
天祖神社のお手伝い役。こちらも親子三代の板橋区民。今回はカメラマンとして参加。


 桜川 前編「暮らしの川・石神井川」では、生活に寄り添っていたかつての石神井川の様子をお届けしました。桜川 中編は、「桜の川・石神井川」と題して、桜川地域の皆さんが見た桜の景色を追っていきます


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さくらの川

筆者補足説明:
 桜川編では桜川御嶽神社へとインタビュー場所を変えている。当時、御嶽神社のある栗原新道は練馬に向かう街道との交差点に宝田稲荷という社があり、その場所を基点に石神井川まで鳥居と桜並木があったと、木下さんはインタビュー前に地域の方に聞き取りを行ってくださっていた。

木:上板橋の駅から五本けやきをわたって 交差したところに宝田稲荷がありまして。その宝田稲荷のあった場所辺りから、(石神井川の)栗原橋までの間に桜の木が植えてあったらしいんですね。(桜と同じように)宝田稲荷から御嶽神社の辺りまで、お稲荷さんの赤い鳥居が立っていた、という風な話をおっしゃっていましたね。
宮:じゃあ、さくらと赤い鳥居が一緒にこう(見えたと)。
木:そのようですね。元々この道路は昔の道ですから。今みたいに両側に家があるわけじゃありませんから、せいぜいリヤカーが通るくらいの幅(約1mほど)。

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筆者補足説明:
 桜川地域には、川沿い以外にも桜が見られたそう。ただし、この風景は昭和29年頃に始まった区画整理によって、10年ほどで失われてしまったようだ。

宝:その桜の木はうちの親父が頼まれて植えたんだよ。
星:もう昭和30年代に入ってから栗原新道の道は…(桜がなくなった)
宝:最後の一本はそこの橋渡るところ…あそこが最後の一本。もう7,8年くらい前かな。かなり大きかったですね。
宮:栗原新道に桜を植えたというのはいつ頃ですか?
宝:おそらく戦後で、中学校時代かなあ。確かね、苗木の頒布があったんですよ。学校かなんかで。いつ頃だったかちょっと記憶がないなあ。
木:昭和20年代の初頭かな。
宮:昭和20年代に栗原新道沿いに植えて、10年後にまた切ってしまったと?
星:私の記憶ではいっぺんに全部伐採するっていうのではなくて、ちょっとずつ、ひっかかったり折れたり邪魔になったりして切っていったような気がしますね。

筆者補足説明:
 石神井川に桜が植えられたのは、現在の上皇さまのご誕生祝いに際したものであり、翌年の昭和10(1935)年のことである。栗原新道に桜が植えられたのは昭和20(1945)年初頭。桜川地域の桜について整理してみよう。

昭和9(1934)年:上皇さまご誕生
昭和10(1935)年:お祝いに石神井川沿いに桜が植樹
昭和20(1945)年代初頭:栗原新道に桜が植樹される。
昭和29(1955)年頃:区画整理により栗原新道沿いの桜の伐採が急速に進む
昭和34(1959)年:石神井川護岸工事
昭和42(1967)年:石神井川沿いの桜の伐採が始まる
昭和51(1976)年:石神井川の桜並木が完全になくなる

 つまり、桜川地域は、その名に恥じぬほど川も道も桜で溢れていたことになる。ここで、現在上板橋に住んでいる高校生、インタビュー陣の一員である加藤から質問が上がった。


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加:今は上四小も桜川小も校章は桜ですよね。(校章にする)というくらい昔は桜がいっぱいあって目立っていたということですか?
木:言われるほどあったわけじゃないと思いますね。子どもの頃は桜のあった場所は限られていますから。
宮:以前下頭橋の皆さんが、茂呂山に丘があると(そこが桜の名所であったと)。
木:あったね。
宝:あれは後から植えたんじゃないか。
宮:(下頭橋の方から)リヤカーとかでこっちの方(桜川)まで来てたと聞きました。
星:私ね、小学校6年生の夏休みまで弥生町に住んでたんですよ。当時お花見っていうと石神井川の上流に行くか下流に行くかで、下流に行くのは中根橋のあたりが綺麗で、上流の方はねやっぱり一本橋まで行ってましたね。そして帰りに茂呂山によって帰る。当時一本橋っていうのは非常に知名度の高いところで。
宮:それは桜以外でも?
星:春は桜で夏になれば水遊び。とにかく一本橋のところは、当時にしたら名所ですね。
木:昔、茂呂山を坊主山って呼んでたんですよ。小学校の頃の遠足といえば坊主山でしたね1年生は。2年生でとしまえんかな?
星:坊主山とかはげ山とか言ってた。
宮:はげやま…でも本当にはげてた?
星:木が植わってなかったんだね。
宮:小学校の遠足でいかれた時には桜はありました?
木:植わっていましたよ。ただ周りが広場で坊主のようになってたから(はげ山という名前だった)じゃないかな。どの程度だったか記憶はないけど、桜のスケッチをしてましたから。
加:今は、大山高校の前大規模な工事していますけど、あそこには桜が植わっていましたよね?良く花見に行っていたんですけど、あれも昔からあるんですか?
宝:あれは後からだね。大山高校自体、そんなに古い学校じゃないし。
宮:確かに学校を作るときに一緒に桜を(植えたくはなりますね)…。
木:やっぱりあの日本人の感覚として入学式とかは桜っていうイメージがあるんでしょうね。ただ上板橋はそんなに桜があったわけじゃないけど、学校に行けば桜がある。そういうところは日本人の共通意識であったんじゃないかなあと思いますね。
星:私は結構桜植わってたと思うんですね。家にもあったよ。
宮:それは(桜川地域)全体的に?
星:石神井川の淵にもありましたし、田柄川の淵にもあった。栗原新道も桜の木があったと私は記憶しています。

筆者補足説明:
 桜川地域に春を呼んでいたであろう桜の木。栗原新道の桜もそうであったように、石神井川沿いの桜も、昭和43年には、上の根橋から栗原橋までの間で伐採されたという。これはちょうど、自身の育った頃の雰囲気が無くなりつつある頃と一致していると木下さんは言う。

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 かつて桜川地域に存在した、石神井川に向かう道への桜並木。このことは地元の高校生でも知らない風景でした。栗原新道は区画整理によって、石神井川は護岸工事によって。どちらも人の増えていく東京の街には必要なことでありましたが、その影に今はもう想像することしかできない光景があったことは、今や当時をその目で見た方しか知らないのでしょう。お話を聞きながら、当時の桜並木を想像するしかできないことが、どこか悔しく思えてしまいました。

 次稿、桜川編最終回となります後編では、今回でも登場した「一本橋」、もとい「栗原堰」について!たかが一本の橋、されど一本の橋。石神井川のカーブにかかる橋は、地域の名所でもありました。題して「栗原堰・石神井川のホットスポット」です。


第五回:栗原堰・石神井川のホットスポット ― 桜川 後編
2021年7月31日 筆者/宮本 紗衣

<話し手>
木下奉章さん
御嶽神社敬神講の講元さん、上板橋在住。
寶田博之さん
現在は奥さんと仲良く桜川在住。
星野正美さん
桜川在住。石神井川沿いに開業していた星野牧場のご子息。牧場のあった場所は、現在の都立城北中央公園。

<聞き手>
宮本 紗衣
天祖神社巫女、板橋区民でもなんでもないが、父が学生時代、板橋で下宿していた。
吉原 恵芽
天祖神社研修生(元巫女)、親子三代の板橋区民。
加藤悠眞
地元在住の高校生。まちづくり・地域創生の分野に興味があるため参加。
矢古宇悠人
天祖神社のお手伝い役。こちらも親子三代の板橋区民。今回はカメラマンとして参加。


 桜川地域の皆さんに、かつての石神井川の姿をインタビューするこの記事も、早くも最終回となりました。第3回は「栗原堰・石神井川のホットスポット」と題して、当時は子供も大人も集った石神井川の栗原堰について取り上げたいと思います。


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文化財シリーズ第77集 写真は語る 総集編 P154 板橋区教育委員会より


石神井川のホットスポット

筆者補足説明:
 栗原堰とは、現在の桜川1-5付近(羽城歩道橋~栗原橋の間)に存在した取水堰の跡であり、江戸中期の頃から上板橋村北部の田畑を潤していたとも。ここには誰が掛けたか一本の板橋が架かっており、地域の人たちはここを「一本橋」と呼んでいた。

星:一本橋っていうのは通称で、もとは栗原堰っていう堰だったんです。そこの堰を止めることによって田んぼに用水を流すという。人からこの話はまったく聞かないんだけど、栗原堰はいつできて誰が管理していつまで稼働していたか、聞いたことがないです。
筆者補足説明:
 名所ではあるが、詳細は誰も知らない……不思議な場所であるが、その不思議な魅力が地域の多くの人を集めていたのだろうか。

木:この辺に洞穴があったんです。ここが急カーブしているじゃないですか。その関係か道のせいか分からないけど、この辺から土管が入っていて。多分ね、急カーブしているから、水が大雨で勢いよく流れてここが削られる。それを吸収するためにこの穴が掘られて、横に流して…っていう策だったのかなと。
星:そこの土管の中はね、腰を屈めるくらいだけど中は通れました。
木:足にヒルがいっぱいついてきた。

筆者補足説明:
 写真を見ても、当時の栗原堰もとい一本橋の盛況ぶりがお分かりいただけるだろう。自転車に乗ってやって来たであろう人々が、網を持ったり橋を渡ったりと銘々に楽しんでいる様子が伝わってくる。
 この写真を撮影した天祖神社名誉宮司は、『写真は語る』(板橋区教育委員会編)内で当時を振り返り、向かって橋の左、手前辺りが1mほど深くなっており、泳げるほどであったと述べている。写真の奥に見える穴は名誉宮司曰く、魚を回遊させるためものであり、写真では見えない右手側に、トンネル状の流入口が存在していたと語っている。木下さん、星野さんの両名が語る土管とはこのことだろうか。ちなみに、木下さんの言う洞穴は、宝田さんの記憶では、防空壕として利用されていたのではないかとのことであった。

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宝:私の記憶では防空壕という記憶なんですけど。戦後私の家の前、川越街道にアメリカの兵隊がガムとか、チョコレートとか投げるんですよ。結構いろんなもの投げていました。それで私が小学校の六年生、拳銃の弾とかタバコ。しかもタバコの吸ったやつとか。でね、私がタバコ拾ってね…

筆者補足説明:
 当時の宝田さんはそのタバコを拾い、年下の友人と土管か防空壕で吸ってみたという。火遊びの因果だろうか。この穴は暗いために、前にいる人とぶつかってタバコをくわえたままの口を火傷したそうだ……
 防空壕の思い出は星野さんにも残っていた。

星:防空壕の穴が崩れて。私、ちょうど遊びに歩いていた時でして。工事の人が、その中を見せてくれました。(中を見ると)上の方にススか何かが垂れ下がっていましたね。
木:あそこらは家がなかったから防空壕が必要だったかは分からないですね。ただ、田んぼとか畑がありましたから、作業している途中に逃げるために作ったのか、自然のものを利用したのか、その辺はよく分からないですね。

筆者補足説明:
 栗原堰だけでなく、栗原堰の周辺にもドラマがあったようだ。先の名誉宮司によれば、この一本橋は彼ら上板橋の「縄張り」という意識があったようだが、ここだけは大谷口や練馬など、他の地域の子供達のことも「大目に見て」やっていたそうである。
 そして、栗原堰は人が集まる場所というだけでなく、当時の暗渠の基点にもなっていた。これを「栗原用水」と呼んでいたようで、現在の城北中央公園のテニスコート脇~桜川中前~安養院~憩いの家~商店街~学校橋~旧川越街道~向屋敷を経て、再び石神井川へと流れ込んでいた。現在でも、安養院にはこの水路が残っているそうだ。宝田さん曰く、この流れの中でも、憩いの家~旧川越街道までは、どぶ川であった記憶があるそうだ。



最後に、当時の栗原堰・一本橋の遊びの記憶をお三方に聞いた。

木:子どもの頃の遊び場は、石神井川ではこの一本橋の周辺だったから。よく網で魚を取って、私なんかは泳ぎの練習とかね。
宮:だいたい水深50㎝くらいだったんじゃないかと下頭橋の皆さんはおしゃってましたね。
木:あったあった。子どもなんか小さいからね。
宮:皆さんも同じような場所で?
宝:私はもっと上流。一本橋の先に、戦闘中に川に爆弾が落ちて広くなっていました。一本橋より30mくらい上流かな。私の子どもの頃は…今は橋が氷川台まで8つくらいありますよね。それが当時は橋が一本しかなかった。そこに麦用の脱穀機がありまして。
宮:麦だったんですか?
木:陸稲だよね。田んぼはその辺しかなかったから、上板橋で土地を持ってる人っていうのは、麦畑だった。
星:春になるとひばりが鳴いて。垂直に登っていってね…

筆者補足説明:
 桜川のお三方に残る石神井川は、どこまでものどかな記憶であった。台風の後、田んぼに残された巨大ウナギを捕獲し、上野の動物園へと持ち込んだ、という証言も得られた。『栗原園』という名前で、お茶の生産を行えるほど、茶の栽培が盛んであった時期もあったという。
 えんえんと続く畑の中を流れる石神井川、その中でも名所であった栗原堰、通称・一本橋。御嶽神社でのインタビューの後、ご協力いただいたお三方と、かつて栗原堰のあった場所を歩いた。石神井川沿いの緑地、ここに星野さんのご実家であった星野牧場があったという。

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高台のグラウンドから臨んだ星野牧場。今回の聞き取りのために持参してくださったファイルの中の一枚



多くの石神井川の記憶の中、3回の記事にわたった桜川インタビュー。その最終回を、地元で高校生として暮らす加藤の言葉で締めたい。

「私にとって石神井川は街の風景の1つとして存在していましたが、世代を変えてみると、洗い場であったり、子供の遊び場であったり、なくてはならない生活の中心として存在していたように感じました。しかし、現代の若者からしても、石神井川は風景と化してはいますが、なくてはならない心の拠り所であるように思います。ですので、桜並木を復活させて、石神井川を後世にも誇れる、あるべき姿に戻したいと強く思いました。」

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かつて一本橋があった場所で。世代は違えど、今を桜川に生きる4人



 3回に分けてお送りしました石神井川花のトンネルプロジェクトインタビュー:桜川編。いかがでしたでしょうか?桜川編では、地元の高校生からの質問も飛び、生き生きとした聞き取りとなりました。下頭橋とはまた一味違った石神井川の思い出、読者の皆さんにも伝わったでしょうか。
 この記事を書いている間、練馬区での石神井川の親水活動の様子を拝見しました。このインタビュー記事にもありました通り、石神井川に育てられた?とも言える下頭橋、桜川地域の皆さんのお話は、非常に興味深く、思い出になっても色あせないものでありました。板橋区でも、水に親しむことのできる場所があれば……と強く感じます。

 今後の記事更新は、ときわ台天祖神社で見つかった、昭和初期の石神井川や板橋の様子を撮影したネガを予定しております。とても貴重なネガを専門家の方に現像していただきました。それを元に、撮影された場所の謎に迫りたいと思います。記事の更新、今しばらくお待ちください!



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石神井川と桜の記憶 ― 弥生町
石神井川と桜の記憶 ― 桜川